帰宅

*堂郁(別冊1エピローグ前くらい)

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いつもより報告書に時間がかかったせいで、郁が着替えて特殊部隊棟を出た頃には外は既に薄暗くなってしまっていた。

足早に寮へと急ぐ途中ですれ違う同期が一様に郁に目を留め、何人かは足も止めた。

――あたし、顔に何か付いてる?
一日訓練に明け暮れ帰る先は同じ敷地内である郁に化粧直しの習慣などない。と言うより化粧自体殆どしないのだが、着替えの際、ロッカーに備え付けの鏡をちらりとみた時には何もおかしなところはなかった筈だ。

しかし一人二人ではなく見知った顔の多くが、しかも女子に限ればほぼ全員がというのだから何もないとは考えられない。
郁は更に足を速め、柴崎の待つであろう部屋へと急いだ。



予想に反して部屋に柴崎はいなかった。残業か、それとも先に夕食でも行ったのだろうか。

――まあそのうち帰ってくるよね。

少なくともここなら不可解な視線に囲まれることもない。
郁は鞄を放り投げてカーペットに寝転がり、テレビを点けた。

先に部屋着に着替えるべきだということは重々承知していてもとりあえずくつろぎたいのが性分だ。幸か不幸か着ているものはシワになると困る上等な服などとはほど遠い、格闘で少々破れる覚悟も済ませているものばかりである。

ぼんやりと投げた視界に入るいつもの部屋の様子が少しさっぱりした気がする。
少し前にようやく片付けたこたつのせいだろうか。温かくなったかと思えば急に冷え込むといった気候のせいでずるずるとしまうのが遅れてしまったのだった。

――こたつのない冬なんて考えられないもんねぇ。

それだけこたつの存在感が自分にとって大きかったのかなどとちょっぴり哲学的なことを考えていたら、扉が開いて柴崎が入ってきた。
ラフな服装に着替えているのでやはり先に戻ってどこかに出ていたのだろう。

「おかえりー、今日は柴崎早かったんだね」
「……あたしもおかえりでいいのかしら?」

「確かに、お互いおかえりなんて変な挨拶だよねぇ」

整った顔を少し傾げた柴崎に郁も苦笑する。

「おかえり」の対語は「ただいま」だろうが、どちらかが公休でない限りお互い仕事帰りなのは明確なのだから双方が「おかえり」と言うのが定石だ。

特に言い交わした訳でもなく柴崎と同室になってから何年も続いた習慣であるが、改めて突っ込まれるとちょっと滑稽かもしれない。

だがそれもとうに今更な話だし、今日の郁にはもっと優先すべき問題がある。「まあいいじゃない」と立ちっぱなしだった柴崎を向かいに座らせ、まずは雑談を振った。

「今日の訓練ホント、きつかったー。疲れると甘いモン食べたくなるよね、あたしのアイスまだあったっけ?」
「あんたの分はこないだ全部片したでしょうに」

そう言いつつ柴崎は冷蔵庫から自分の買い置きを取り出して郁に向けて置いてくれた。

そう言われてみれば少し前に買い置きを一気に食べた記憶がある。こんな贅沢もうないかも、とか言って柴崎に呆れられたはずだ。

付属のピックは柴崎にと六個入った小型のアイスを一つ手でつまんで口に放り込む。

「んーおいしい、いやされるー」
そんな郁の様子をしげしげと眺め、小さく息を吐いてから柴崎は口を開いた。

「で、どうしたの?」
「へ?」

「何があったのって言ってんのよ」

少し低い位置から郁を見上げる柴崎の美しい瞳は郁に話してみろと言わんばかりだ。

「やっぱり、分かる?」

郁から持ちかけるまでもない。さすがは柴崎、お見通しというわけか。
柴崎ならこの疑問をたちまち解消できるに違いないと郁は帰路でのいきさつをまくし立てた。



「……て訳でもう何が何だか。ジロジロ見るんなら直接言ってよって話だよねぇ」

一気に話し終えて、柴崎がいつのまにか入れてくれていた目の前の紅茶に口をつける。思いの外のどが渇いていたようだ。直情型の郁にはこういうワケのわからないトラブルが一番堪える。

さて柴崎の判断やいかにと顔を上げると、真剣な表情でまっすぐ郁を見据えていた。
その様は予想とは遥かに違っている。何だそんなことと鼻で笑って郁の疑問をすっぱり解消してくれるものだと思っていたのに、この表情は余程深刻な事態なのか。

――いや、眉間にシワがよっているから困惑?
眉尻が僅かに下がって……哀しみ?

次いで唇を軽く噛み、クッと白い喉の奥から押し殺した声が漏らした柴崎に、もしや泣く!?と郁が想像力を爆発させたその時、高まった感情を一気に噴出するかのごとく、いやまさにその通り柴崎は噴き出した。

そのまま身体を二つに折り、クックッとくぐもった声を上げているが苦しいのではなく笑っているのだということは想像しなくとも分かる。

「あ、あんたって……」

某上官よろしくしっかり上戸に入ってしまったようだが、郁と行動を供にした時間の違いか、小牧よりは少々早く帰還して寮の備品であるタンスの一番上の引き出しを無駄のない挙作で開けた。

それは郁の下着やら靴下やらが入っている筈の場所で、同期同室と言えどプライベートにはきっちり線を引く柴崎にしてはありえない行いだ。が、その行動を咎める言葉は郁から出なかった。
引き出しの中はからっぽで、訓練日に着ける色気の欠片もないスポーツブラやデート用の郁としては精一杯色っぽい下着のセットも跡形もない。
思わずタンスに駆け寄って自分の服が入っている引き出しを上から順に開けていく。

「何で……!?」

しかし、全て空であるのを確認し終えてそのまま座り込んだ郁に、やれやれといった口調で柴崎が言葉を落とす。

「あんたちょうどひと月前の公休日、何してたの?」
「え、ひと月前?」

一ヶ月前と言われて郁は記憶を辿る。何だかバタバタしていた印象が残っている。

――篤さんがいて、手塚と小牧教官も手伝いに来てくれて。
張り切り過ぎるなって篤さんに言われたのに結局次の日筋肉痛で、柴崎は力仕事は無理だからってこっちもあっちも掃除をほぼ全部やってくれて……

――って、“あっち”?

ハッキリしなかった記憶だが、ひとつ取っ掛かりが見つかるとするすると絡まりが解けてくる。

ダンボールだらけの部屋でピザやら寿司やらデリバリー取って引越し祝いだーって……

「そうだ引越し!!」

勢い余って座卓をバンと叩くと柴崎は口元に手を添えてにっこりと美しい微笑を浮かべた。


「引越ししたのにうっかり前の家に帰りかけたって、たまに聞く笑い話だけど、まさか自分が結婚して新居に引越した事をすっぽり失念してここまで気付かないなんてねぇ」

教育番組のお姉さんなら「よくできました」との台詞が付くに違いない整った笑顔に見とれる余裕は郁にはなかった。

自分のあまりの迂闊っぷりに長年の付き合いで慣れた柴崎でも流石に呆れただろうと恐る恐るそちらを窺うと、先程までの整った微笑みより眉根が寄っただけで先程のような上戸に入る様子ではない。

「呆れた、よね?」
「むしろ安心したわよ」
「へ?」

予想外の返答に声が上擦ってしまった郁に柴崎は頬を緩めた。

「新婚早々家出してきて、堂上教官と揉めたにしては、有り得ないくらい平静な顔で座ってるんだもの、一体何事かと思ったわ」

むしろ帰る家を間違ったって大ボケの方があんたらしいわと辛辣だ。

「ゴメン勝手に上がり込んで」
「まー、あたしはいいんだけど」

おもしろいモノ見せて貰ったしと茶化す柴崎が暗に示したもう一人の存在に郁は跳ねるように立ち上がった。

「篤さん!あたし帰らなきゃ!!」

郁が事務室を出た時、堂上はまだ机に向かっていた。そんなに書類が溜まっているようには見えなかったから、もう帰路に付いたかもしれない。

「ゴメン帰るね、柴崎」
「了解」

簡潔な返事を背中で受けて、その辺に放り出したカバンを引っつかみ郁は走り出した。

時間帯のせいか、廊下に人が少ないのをこれ幸いと全速力で駆け抜ける。二十代の大半を過ごした寮だ、しっかりと頭に入っている間取りを思い出してコース取りを組み立てる。

――コーナーをスレスレで曲がったら後は靴を掴んで……

靴を履く時間ももどかしい。
どうせ同じ敷地内だしいっそ裸足で走って帰ろうかと最後のコーナーを曲がったところで、危うく誰かにぶつかりかけた。

「すいませんっ!」

顔もろくに見ずに頭を下げ、再び走り出そうとすると腕を掴まれた。

「そんなに急いでどこへ行くんだ」

強引に引き戻されて抗議しようと郁が振り返った先にいたのは、今まさに全速力で会いに帰るつもりだった堂上そのひとで、ひどく複雑な表情で僅かに郁を見上げていた。

「あ、つしさんっ……どうしてこんなとこに?」
「それはこっちの台詞だな、まさか結婚してこんなに早く家出されるとは思わなかった」
「いやっそれは!その……」

全くの誤解だが、誤解するのも致し方ない。いつでも遊びに来いという柴崎に喧嘩の時の家出先確保!と豪語したのは記憶に新しい。

事の次第をかい摘まんで説明すると眉間の皺が多く深くなった。

「本当か?何か嫌な事があったのなら……」
「本当ですよ」

傍らからの涼やかな声に二人同時に振り向くと、部屋から郁を追ってきたらしい柴崎が微笑んでいた。

「なんなら調査報告でも出しましょうか、ここの人達に証言して貰うだけで充分証明できそうですけど」

そう言われて周りが野次馬だらけであることに今更気付く。
あからさまに取り巻かれたりはしていないが、そこここに人影が見える。当然事の成り行きに耳をそばだてているのだろう。

隊内恋愛で結婚した二人が新婚早々独身寮で腕を掴み何やら揉めている。

噂話に目のない寮生達には格好の標的に違いない。

「あ、篤さん、帰りましょう!」
「いや、しかし……」

まだ得心のいかない堂上を追い立てるようにして郁は独身寮を後にした。

「郁……」
「ホントにホントですってば」

寮の玄関を出て歩き出してからも完全には疑いの晴れないらしい堂上に郁は念を押す。

まさかあそこまで抜けた事をやらかすなんて、そりゃ自分も信じられないですけどと迂闊を強調すると、いつものようにトリ頭などとは言われず、ならいいとだけ返ってきた。

日が長くなってきたとはいえ、柴崎の部屋でそれなりの時間を過ごしたので辺りはもう薄暗い。

官舎までの僅かな道程を並んで歩くと腕の振りに合わせて何度かお互いの指が触れる。
いつものデートでは堂上が手を握るタイミングだが、今は躊躇っているのが丸わかりで、郁から指を絡めると優しく握り返された。

「心配かけてごめんなさい」
「いや、謝る事じゃない」

こんな心臓に悪い事はもう勘弁して貰いたいがな、と苦笑してから堂上は続けた。

「もし何かあったら家出する前に直接言ってくれ」

きゅっと握り締められた手を強く握り返してはいと答えた。
そして二人は二人の家路を急ぐ。

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終わりです。